Spangle Call Lilli Lineというミュージシャンがいる。
とても感覚的な、不思議な名前で、初めはなかなか覚えられなかった。
私が東京でデザイナーをしていた頃、TOWER LECORDでたまたま購入したアルバムが「Or」。
割と初期の作品で、アルバムを通して居心地の良い浮遊感がただよう、お気に入りのアルバムだった。
「Ice track」という曲を聞くと、今でも、深夜に通るレインボーブリッジの光の洪水を思い出す。
終電をとっくに逃し、タクシーに乗り込む帰り道。
当時は葛西に住んでいたので、ルートは決まってレインボーブリッジだったのだ。
午前をとっくに過ぎている。シェアメイトを起こさないよう、そっとアパートの扉を開ける。
当時の私のささやかな楽しみは、夜があけるまでのこの数時間。
共用の広めのキッチンのかべに、大きな紙を貼って、この曲をヘッドフォンで聞きながら、無心に手の動くままに描く。
何も考えないで、手が勝手に動くのを、待つということ。
動きだしたらそれを邪魔しないよう、息を殺して、見守るということ。
線が生き物のようにうごめいて、カタチになって、イロになって、紙のうえにとどまるのを、最初から最後まで私は、物影からそれをそっと隠れて見るような気持ちで。
日ごろ溜め込んだ行き場のない感情は、ここぞとばかりにつぎつぎと、線やカタチやイロになって生まれ変わってくる。
誰にも止めることのできない、意志をもった生命のような行為だった。
「うむ」という、この言葉は、一見意志を持って行なうようにも聞こえるけれど。
「うまれる」という、生まれてくるものにはまるでコントロールできない言葉と共に。
本当は、生む方も生まれる方も、全く成すすべなんてなく、ただただ受け身なんじゃないかと思う。
生命も、「うまれてくる」もの。
作品も、「うまれてくる」もの。
こうしたいとかああしたいとか、「生む」ことができると思うのはきっと、本物じゃない。
生成する、その成ってゆくというそのものにしか、意志なんてないんじゃないか。
カタチづくったものや、カタチづくられたものは、きっと気付いたらそうなっていただけで。
生成するというこの動詞の中にこそ、生命の本質が宿っている、そんな気がしてならない。
Spangle Call Lilli Lineのこの初期の作品の中には、私のあの時の気づきとともに、生成する意志が成した「生まれてきた」ものの輝きが宿っている。
だから私が制作に行き詰まったときは、最初に「生まれてきたもの」の輝きを確かめるのだ。
夜の海の虹の橋を通り、光の洪水の中を駆け抜け、息をひそめてそっと待つ私の右手にやっとたどりついた、名前のないなにものかの輝きを。
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