天気のよい青空には、ときにキラキラと光る粒のようなものが見える。
あるときふと思いついたことことがあった。
半透明のものには、浮遊する魂や気のようなものが入りやすい。
家のカタチをした、透明のガラスを見ていてふと、ああ、ここには何かが宿りやすいけれど、あまりにも透明すぎてとどまることができない。
透明すぎると、魂はとどまることができず、通過してしまう。
不透明すぎても、魂は入ることができない。
半透明であれば、入ることもとどまることもできる。
それはまるで光のような存在だなあ、と。
古代の日本では「霊」のことを「ひ」と読んでいた。
霊という漢字は中国から伝えられたもので、中国では生命を育むものとして「水、雨」が大切にされてきた。
気候も自然環境も違う日本では、大切なのは太陽の光。命を育み力を与えるものは、日であり光であったから。
だから日本語で「ひと」という語源には、命の力を与えるひかりがとどまるもの、という意味があるそうだ。
ならばひとは、本来半透明な存在なのではないかと思った。
私の住んでいる岐阜県では遙か昔からの言い伝えで、静かに凪いだ池を囲んでみんなで瞑想をする「日抱きの御魂鎮め」という風習があった。
凪いだ水面には太陽の光が映り、それをみんなで抱くようにして、自分のなかの光を見つめるのだという。
「みたましずめ」とは、魂はときに体から離れ、フワフワと抜けていってしまうものなので、それを静め、とどまらせる。
静かに心を落ち着けていると、やがて神通の境地になり、遠くのものごとや未来を見透すこともできたそうだ。
何も考えず、心を水面のようにして、ただ目の前の世界をそれそのものとして映す。
そうしていると、そこには、ふと、ただよう魂のようなもの、キラキラした光のようなものがすうっと入っていく。
日本では、八百万の神という名前の、命があろうがなかろうが、存在するすべてのものに宿る神さまが、光のように、その半透明になったひとにふと入ってくる。少しの間とどまって、必要なことを伝えたら、またふと去っていく。
そうしてひとは世界とつながっていたのではないかと思う。
そんなことを考えるようになってから、私は、ふと青空を見上げたとき、キラキラした光がみえたら、できるだけ半透明な自分を想像して、そうでありたいと、願うようになった。
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