丘の上のブルー藍



出会ってひと月も経たないのに、ずっと前から知っていたかのような親しみのある人と、ランチへ行った。

彼女の指定のお店は友人がやっているという菜食カフェ、「ブルー藍」。

一見ぶっきらぼうだけど、快活で気さくな女主人が作る手作りのビュッフェ料理はどれも絶品でヘルシー、常連のお客さんが次々と入れ替わり立ち代りする繁盛店だった。


大きなテーブルを他のお客さんと囲み、ちょっと落ち着かないなあとソワソワしながら待つ間。

まだ青いつぼみを真っ直ぐにピシャンと伸ばした、少し変わったチューリップの鉢植えを眺めていた。


待ち人来る。

まだ出会って15日ほどの、自宅で小中学生を対象に塾をしているというその人は、Sさんという。

生き生きとしていて若く見えるけれど、確実に人生の大先輩である。

何となく面白そうな人だなあ、というのがお互いの第一印象なのだと思う。

お互いのことを話すうちに、すっかり意気投合したのだった。


彼女は興味深いことに、ご縁のあるモノや人が金色に光って見えたことが3回あるという。

まだ10代の時に出会った男子学生は、一目見て光っていた。今のご主人である。

引っ越しを考えていた時に出会った中古物件も光っていた。雨漏りしたけど。

尊敬できる師も光っていた。この人は本物だという確信を持ったという。


なんだこの人スゴイ。

私も直感で生きている人間だけど、何かが光ったことなんて……あれ、そういえば一度だけあったかも。


学生時代に出会った、塾の先生のなかに一人だけ光っていた人がいた。

その人とはやっぱり仲良くなって、大大大親友として人生の苦悩や痛み、喜びや迸るような輝きも、ひと言では表せないほどのものをたくさん共有した。

今わたしが美術作家になったのは、木工作家だったこの人の背中を間近で見せてもらった、短くも凝縮されたこの期間があったからだ。

その人とは、彼女に連れ添う人が現れた時に別れが訪れた。

ご縁とはそういうものだと思う。


興味深い経験をされているSさん。

Sさんのこれまでの人生で得た貴重な気づきや、体育教師をされているというご主人の立派な人柄による逸話など、うならない場面はないというほどうならされた。

光ってたけど雨漏りした中古住宅も、20年の歳月を経て「やっぱりこの家だったからこんなことが起こったんだ!」というミラクルな後日談もあった。

また逆に、私が日頃確信を持っているけれども人にはなかなか話せないようなちょっとアレな話なんかも、ものすごく真剣に聞いてくださった。

(アレな話と言っても、ものづくりをしている人間なら誰もが感じていること、例えば、「自分が作品を作ってるんじゃない、何かに作らされているんだ」みたいなこと)


話は尽きず、結局カフェ「ブルー藍」には日が落ちるまで居座った。

青空から夜空まで、まさにブルー藍な一日。


Sさんはランチをさりげなくおごってくれてさらに、

「私はあなたに恩を受けたことがあるみたい。それをいま返したまで。気持ちよく受けてね。」と。

ずっと前から知っていたかのような不思議な親しみはあったけれど。

はっきりと覚えていないいつかの恩まで返そうとしてくれる、この心の誠実さを何といえば良いのだろう。

胸にジンと来るものがあった。


恩を返すということ。

自分が困っている時に人から手を差し伸べてもらったら、今度はその人が困った時に手を差し伸べること。


恩を返されるということ。

自分が手を差し伸べた時、その人が助かったよと笑顔を見せること。

「ありがとう」と言ってもらえること。


恩を後でわざわざ返されるまでもなく、困っていた人が笑顔を見せた今この瞬間に、すでに恩なんて返されているのではないだろうか?

笑顔と「ありがとう」が返ってきたこの瞬間に、自分はすでに幸せになっていないだろうか?

そもそも恩とは、助けられた人が恩を感じたその一瞬にして、すでに返済されているものなんじゃないだろうか。


そうだとすれば、恩をいつまでも大切に感じているその人の心にこそ、手助けするという行いよりもさらに美しく尊いものが、そっとひそんでいる。




丘の上のブルー藍をあとにして。

帰路に就く私の心にふと、あの青くかたいつぼみを戴いた、窓辺の真っ直ぐなチューリップが浮かんでいた。